2009年9月18日 (金)

なぜ富山県、とりわけ高岡市は歴史の教科書に出てこないのか(5) - 法則を破る人物も

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7. 戦後の政治

そして、民主党政権交代時に自民党の新人議員を送り出す現代になります。
他県では過去の政党だと思われている社民党と国民新党が異様に大きな存在感を持っているところなど、やっぱりこれまで見てきた通りの高岡だと思わせてくれます。

しかしそんな中、確かに歴史から埋没してはいるのだけれども、「早すぎたり遅すぎたりと間が悪かっただけで、意図的ではない」というタチバナ現象の定義から外れる例も出てきました。
元読売新聞社主の正力松太郎、別名ポダムさんは金にものをいわせて富山3区から当選1回で総理大臣の座を狙ってゆきます。結局、田中角栄らとの政争に敗れて科学技術庁長官ポストに落ち着きますが、高岡らしからぬ力強い野望を見せつけました。
このことはもう政府、マスコミが総力を挙げて歴史から消しにかかっています。

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以上、富山県呉西地区、高岡市が権力と微妙にずれたポジショニングをしてきた歴史を眺めてきました。これだけタチバナ現象で体制から距離を置いていても、歴史の教科書からは消されるかもしれないけれど、まあそれなりにやって行けるんだという気にならないでしょうか。

最後に、現在の権力が選んだ歴史を列挙してみます。

日本政府の選んだ物語

  • 米騒動
  • イタイイタイ病

高岡市の選んだ物語

  • 大伴家持の文学
  • 前田利長の支配
  • 金屋の鋳物 - 三協立山、銅器製造販売各社
  • 用水を整備した技術者 - 米作り農家

高岡市が最近追加した物語

  • 伏木の北前船 - 北前船資料館 - 伏木海陸運送
  • 山町筋の商業 - 土蔵造りの町資料館

東京支配を脱して発展するためにも、『日本の古き良き』などと言って押しつけられている画一的で閉鎖的な田舎のイメージと違った、あなたの呉西地区、高岡市の物語を持ってみることをおすすめします。

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なぜ富山県、とりわけ高岡市は歴史の教科書に出てこないのか(4) - 格好よくすらある

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5. 徳川幕府を仮想敵とした前田家支配

江戸時代の歴史は江戸だけ見ていればOKという感じで、あとは県ごとに自分の県に存在した藩の歴史を大切に教えているという状況でしょう。

この時代の高岡もやっぱり体制側とは逆のポジショニングを行います。
前田家は基本的に幕府を仮想敵と設定していたようで、高岡に幕府の権威の名残を見ることはありません。幕府の目を欺いたり、攻撃に備えたりしていた形跡ばかりが残っています。

  • お城の守りが弱い背後にあった定塚町を、町ごとお城の正面に移す
  • 瑞龍寺の屋根瓦を弾丸の原料として使える鉛にした
  • 一国一城令でつぶした高岡城址の堀を埋めずに活かし続けた
  • 田んぼを狭く見せ、石高をごまかした砺波の散居村

高岡最大の祭礼である御車山まつりも、豊臣秀吉が天皇を聚楽第に迎えたときに使った車を高岡の町人に与えることによって前田家の向こうに幕府ではなく、朝廷の威光を見せて民衆を手なづけていたのでしょう。

こんなことをしていると当然幕府から疑いの目を向けられるのですが、前田家は高岡を開町した2代藩主の利長をスケープゴート扱いして隠居させ、加賀藩を守ることになります。そうして加賀藩は引き続き金沢を中心として栄え、高岡はまた政治の中心から外れることになります。
もっとも、3代藩主の前田利常の庇護の下、商業的には大きな躍進を遂げるので高岡にとって良かったか悪かったかは分からないところではあります。

6. 明治維新時は新政府側ではなかった

明治維新のときも当然、新政府側にはつきません。

天野屋蒲鉾店のホームページ
によると、明治5年、高岡は県庁の設置か米相場の設置かを選べる立場になったとき米相場を選んだのだそうです。
現在から見た結果はちょっと損だったようにも思えますが、「県庁?何それ?食えるの?」って感じが、もうかっこよくすらあります。

続く

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なぜ富山県、とりわけ高岡市は歴史の教科書に出てこないのか(3) - ここから本番

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3. 鎌倉幕府滅亡直後に後醍醐天皇の息子、恒性皇子を殺害

後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒そうとして失敗した元弘の変で失脚した後醍醐天皇の息子、恒性皇子は高岡で軟禁されていました。
後醍醐天皇は配流されていた隠岐の島から戻り、再び鎌倉幕府に対して攻勢に転じ、1333年の春についに幕府を滅ぼします。
恒性皇子を預かっていた越中の守護名越時有は鎌倉幕府方だったのですが、鎌倉で北条氏が滅ぼされたころ、450km彼方の出来事を知ってか知らずか恒性皇子を殺害してしまいます。
恒性皇子の墓は都の置かれたことのない場所に存在する唯一の皇族の墳墓なのだそうです。勝者の息子を殺害してしまっては高岡は当然歴史から消されてしまいます。タチバナ現象の始まりです。

4. 百姓のもちたる国、一向一揆、浄土真宗門徒による自治

室町時代に入ると土砂の堆積で伏木の港湾機能が低下し、国府が放生津のあたりに移動します。そこにはかなり大きな船を持った商人が存在したという記録が残っているそうで、海上交易は依然盛んだったと見てよさそ うです。
この時代に起きた浄土真宗の北陸進出は高岡の文化に対して大伴家持、前田利長以上に大きな影響を与えています。

金沢と福光の中間あたりに本泉寺というお寺があります。そこには浄土真宗中興の祖である蓮如の叔父がおり、1471年ごろ比叡山延暦寺との対立で京都にいづらくなった蓮如を福井、石川県境の吉崎へ招き入れます。そして、それを機に北陸地方で一気に浄土真宗が広まります。
越中では蓮如により同1471年に建てられた勝興寺善徳寺と、ひと足早く1390年に綽如によって建てられた瑞泉寺の3つの寺院を中心に信者を増やしました。
やがて浄土真宗の門徒は加賀の守護を務める富樫氏の実権を奪い、金沢御坊を中心としてある種の共和制のような政治体制を作り上げます。これは「百姓のもちたる国」とも呼ばれます。ここでいう「百姓」は網野喜彦が解釈したように、狭く農民という意味ではなく、貴族、武士、町人、神官、僧侶以外の普通の人々ととったほうがよさそうです。この政府は商業活動により経済力を高めた百姓つまり豪商、豪農、廻船業者が中心となって運営されていました。

これは朝廷や武士以外の人によって運営された日本で初めての政治体制として、民主主義国家としては大々的に教科書に取り上げられてもおかしくない出来事だといえます。しかし、そうはなっていません。高校で日本史を選択しなかった者は農民がムシロ旗の下、鍬を持って暴れまわっていた ようなイメージしか持てていません。戦国大名を一通りやりつくした感のあるNHK大河ドラマでも完全に無視されています。
これもまた過去の権力はもちろん、現在の政府にとっても好ましくないストーリーとして意図的に消されたとみて違いありません。
幕府から見たら百姓風情がお武家様と対等に渡り合ったなんて話が広まると体制の維持に影響が出てしまいます。現在の政府にしても主権在民を掲げていても、明治政府が作り上げた天皇家の物語から逸脱した歴史は排除したいようです。また、現在も強い力を保っている浄土真宗という宗教を教科書に取り上げるのは生々しすぎる、布教に加担しかねないという意識もあるのかもしれません。
こうしてまた高岡は歴史の片隅に追いやられます。今度は時代にちょっと先んじすぎたようです。

このころに起こった歴史上の出来事としては越後上杉家の侵攻もまた忘れられている出来事のひとつです。部下に褒美を与えるために攻め込んでくるなんて侵略戦争以外の何ものでもありません。侵略された側が恥として消し去ったのでしょうか?。あるいは戦国時代にはよくあることすぎて忘れられているのでしょうか?

続く

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なぜ富山県、とりわけ高岡市は歴史の教科書に出てこないのか(2) - 本領発揮前

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1. 物部氏が住んでいた

古事記や日本書紀の時代、10代崇神天皇の命を受けて大彦命が北陸道、高志道を平定します。これは大昔過ぎて歴史というよりは神話みたいな時代です。
大和朝廷が畿内から外部に勢力を拡大したとき最初に制圧された地方のひとつといえます。
大彦命は越中の守護として物部氏を残していきました。
時代は過ぎて30代敏達天皇の時代に物部氏は失脚しますが越中には影響はあったのでしょうか。
この頃のことは大和朝廷と藤原氏の都合のいいように記録されているでしょうからなんとも言えないところです。

2. 越中の国守、大伴家持が失脚

天平時代746年-751年、越中の国守として大伴家持が伏木に赴任してきます。これは高岡の人には最も有名な歴史上の出来事となっています。
文学はもちろん政治的にも有能な方だったと思われますが、越中から帰ったあと次々に政争に巻き込まれており、あまりいい晩年を送ったとは思えません。
橘奈良麻呂の変: 関与を疑われ薩摩守に転任
氷上川継の乱: 関与を疑われ追放
藤原種継暗殺事件: 関与を疑われ没後だが官位剥奪。のちに名誉回復
越中と伏木の政治的な立場には多分影響なかったと思いますが、のちの高岡の影の薄さを暗示しているようにも思えます。

この時代、高岡の存在感がどの程度のものだったかを示す資料としては、昨年「越中国射水郡鳴戸開田地図」(759年)が発見されました。これは現在見つかっている中では国内最古の地図だということです。
この地図は当時高岡に東大寺の荘園があったということを示しています。少なくとも穀倉地帯としては重要な土地だったのではないでしょうか。

続く

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なぜ富山県、とりわけ高岡市は歴史の教科書に出てこないのか(1) - プロローグ

高岡開町400年まつりにはこれを機に「高岡の歴史と文化を振り返り、学び・再発見・再認識する」という目標があります。
しかし、そもそも富山県が社会科の教科書に登場するのは米騒動とイタイイタイ病のみです。高岡市を含め呉西地区なんてかすりさえもしていません。

教科書に載らないからといって呉西・高岡に歴史がないわけではありません。
その理由として学生のころささやかれていたのは、「政治、経済の中心はずっと太平洋側だったから」というのと、「歴史の資料が一向一揆で燃えてなくなったから」という2点でした。

・ 「政治、経済の中心はずっと太平洋側だったから」説
幕府の置かれた鎌倉と江戸は確かに太平洋側にあり、政治的に日本海側が中心となった時代はないようにみえます。しかし、経済的には日本海側が大きな存在感を持っていました。太平洋側より日本海側のほうが先に海上交通が発達し、盛んに交易が行われていたようです。

・「歴史の資料が一向一揆で燃えてなくなったから」説
一向一揆というのは意外と戦争のようなことはあまりやらなかったようです。加賀にしても富樫氏を滅ぼしたわけじゃなく、百姓のもちたる国だった頃も守護はひきつづき富樫氏がやっていたりします。激しく戦ったのは織田信長に攻められたときの、後に大阪城となる石山本願寺や伊勢の長島くらいなのではないでしょうか。そもそも富山県で激しく戦っていたなら瑞泉寺、勝興寺、善徳寺が織田家の武官だった前田利家と仲良く同居する気にならないはずです。浄土真宗には焚書をする習慣も動機もなさそうですし。少なくとも他の地方よりも昔の資料が大幅になくなったとは考えづらいところです。
これは勘ですが、一向一揆と明治維新のときに行われた神仏分離・廃仏毀釈運動が混同して伝わっているのではないかという気がします。富山藩は廃仏毀釈の特に激しかった場所のひとつです(富山藩合寺事件)。富山の廃仏毀釈運動については玉永寺さんのサイトで詳しく紹介されています。お寺が取り壊されたり、経典が焼かれたりしたので、こちらの事件ではきっと歴史的な記録も失われたに違いありません。ただ、これだと藩や商人が持っていた記録は消えません。そもそも歴史上重要な事柄なら京都か江戸にも記録されているはずです。

なので、どちらの説も決定的ではないと思います。

これは仮説ですが、問題は歴史を記述する側にあったのではないでしょうか。歴史は勝者がつくるといわれるとおり、その時々の強者に都合の良い歴史が選択されてきているはずです。

高岡は歴史を記述してきたその時々の権力にとっても、教科書を作っている現代の政府にとっても微妙に気に食わない位置取りをすることが多かったのではないでしょうか。

それも早すぎたり遅すぎたりと間が悪かっただけで、意図的ではないと思います。
少なくとも高岡を中心に国家を転覆させるような反乱が起きたこともないし、明治維新のときの会津藩のように気骨を持って反体制を貫いたわけでもない。

ちょうど2009年8月の衆議院議員選挙で脱官僚を掲げて民主党が政権を奪取しているのに、北海道開発庁出身で自由民主党の新人である橘慶一郎さんを選んでしまうような間の悪さ。
これを歴史上ずーっと繰り返してきたのではないかと思います。これを仮に「タチバナ現象」と名づけておきましょう。

そんなことをしててもなお経済的にはそれなりのプレゼンスを保っている。そんな感じなのが富山県呉西地区と高岡市の歴史なのじゃないかと思います。

続く

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2006年10月28日 (土)

個によるものづくり

厚木インターチェンジの近くに厚木アクストという
高層オフィスビルが建っています。

基本的には企業の事務所が入居しているビルなのですが、
その3階に郷土資料収蔵室という毛色の変わった施設が
入居していました。

そこが目的で厚木アクストに行ったわけではないのですが、
面白そうなので入ってみました。

部屋は普通のオフィスと同じ作りです。
スチールラックに収まった木製の民具さえ無ければ、
木の香りさえ漂ってこなければ、
事務所です。

そして人の気配がありません。
「奥で作業しています」という立て札があったので、
おそるおそる入ってみると、ひとりぼっちでPCに向かって
作業をしている方がいました。
かなり寂しいんじゃないかと心配です。

展示物の様子は写真の通りです。
鍬や鎌などの農機具、脱穀機、瓶、徳利、食器や家具など、

近くで見てみるとみんな手作りだなという感じです。
織機に開けられている穴も一つ一つみんな不揃いです。
ほぞだって役割は果たしているけれどぴっちり合っていない。
作った人は大変だったんでしょうね。

美術館に並んでいるような工芸品とはひと味違う道具たち。
きっと普通の人が作ったんでしょう。
この脱穀機が完成したら、来年は楽だぞとか思ったはずです。
絶対わくわくしながら作っていたんじゃないかと思います。

こういう物作りを現代に復活させたいなというのが
会社設立の目標の一つです。
ものづくりの個への回帰と言えばいいのかな?
大企業所属じゃなくても、
一流研究施設所属じゃなくても、
資本が無くても、
一流の技を持っていなくても、
先進国にいなくても、

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